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ドラガン・ストイコビッチ(ピクシー)が、現役生活の最後を、日本のJリーグ、名古屋グランパスエイトで迎えました。ユーゴスラビアは、「東ヨーロッパのブラジル」と言われるくらい、ヨーロッパでも技術・技巧に優れた選手を多く輩出する国です。その中でもストイコビッチは、間違いなく最高クラスの選手であり、ヨーロッパで伝説の選手です

しかし、ストイコビッチの選手生活は、政治と民族紛争と戦争(内戦)に翻弄されました。1990年にイタリアで開催されたワールドカップでセンセーショナルな活躍(ベスト8で敗退にもかかわらず、ベストイレブンに選ばれる)を見せた当時25歳のストイコビッチの前途は洋々たるものがあったはずです。

しかし、民族紛争を発端とするユーゴスラビア内戦による国際制裁によって、ユーゴスラビアは1992年のヨーロッパ選手権直前に、国際試合の舞台から締め出されてしまったのです。1994年のアメリカ・ワールドカップにも、当然出場できませんでした。ユーゴスラビアが国際舞台に帰ってこられたのは、1998年のフランス・ワールドカップのヨーロッパ予選、そして予選を勝ち抜いて出場権を得た本大会まで待たなくてはなりませんでした。

国際制裁によって選手としての絶頂期を否応なくフイにさせられたストイコビッチは、当時所属していたフランス・リーグのマルセイユというチームの八百長疑惑による2部への強制降格、自身の膝のケガ(何度も手術をしたと聞きます)もあり、引退すら考えていたと言います。そんな傷心のピクシーに日本の名古屋グランパスエイトへ移籍の声がかかったのは、1995年夏のことでした。私もその時、あのストイコビッチが(当時はJリーグで下から数えて1番目か2番目だった)名古屋グランパスエイトへ来ると聞いて、「へえ〜」と感嘆はしたものの、当時は一部で「年金リーグ」と陰口を叩かれていたJリーグに、また1人「年金稼ぎ」にやって来るのか(そして、また日本のクラブはそんな選手を呼ぶのか)という気がしたことも事実です。

ストイコビッチ自身、「傷ついた心を癒すために日本行きを決意した」と聞きます。そして、「半年もしたらヨーロッパへ帰ろう」と思っていたとも聞きます。もう一方で、「日本の人々に全力プレーを見せなければならない」とも決意したそうです。それから実に7年の月日が経ちました。1981年にプロデビューして以来20年間の選手生活で、名古屋グランパスエイトが、ストイコビッチにとって最も長くプレーしたチームになりました。

ストイコビッチのプレーは、ピクシー(妖精)というニックネームが語るとおり、誰にでもわかる高度で正確な技術の上に、流麗で、意表をつく魔法のようなイマジネーション(想像性)とクリエイティビティ(創造性)溢れるパフォーマンスが特長です。加えて、茶目ッ気あるしぐさ、一転して激しい感情という、ピッチ(フィールド)の中で喜怒哀楽を見せ人々を惹き付ける、華でもありました。

「ファンタジスタ」という言葉があります。文字どおり、ファンタジーを感じさせるプレイヤーだけに与えられる称号です。しかし、高度にシステムや戦術が追求され、相手チーム・相手選手に対して激しいプレッシャーをかける現代サッカーでは、ファンタジスタは非常に存在しにくくなっています。ストイコビッチは、紛れもなく、世界で数少ないファンタジスタの1人でした。

7月14日のホーム(名古屋・瑞穂陸上競技場)最終戦のサンフレッチェ広島戦でも、間違いなくストイコビッチが一番輝いていた、との報告を聞いています。若く元気一杯の選手たちが、36歳のプレーに振り回されていたといいます。試合後の引退セレモニーでは、スタンドを「PIXY」の人文字で真っ赤に染めた名古屋グランパスエイトのサポーターだけでなく、相手のサンフレッチェ広島のサポーターからも盛大な「ピクシー」コールが巻き起こったそうです。私は、この試合はTVで観たのですが、決勝ゴールとなったPK(ペナルティキック)に臨む前に、ホーム最終戦という重い重い試合の緊張感からでしょう、何度も何度も深呼吸をして精神を集中してからボールにアプローチしていったストイコビッチの姿が印象的でした。

7月21日の東京スタジアムでの東京ヴェルディ戦。ストイコビッチの本当に最後のゲームです。試合内容の方は、ストイコビッチのファイナルゲーム・フェスティバルという感じでした。J2に降格危機に曝されている東京ヴェルディは、勝負にこだわっていこうとしていたのがわかるのですが、いかんせん、その絶不調ぶりを露呈するかのような集中力のないパフォーマンスで、最初からピクシー・フェスティバルとなりました。

タイムアップ(試合終了)のホイッスルが鳴る前から4万3000人を超える観客で一杯となったスタジアム全体の「ピクシー、オーレ!」の大合唱に涙腺がゆるみました。また試合後のインタビューで日本について「Seven beautiful years」と語ってくれたピクシー。試合が終わっても、ほとんどの観客が席を立ちません。ヴェルディのサポーターからも「GOOD-BYE PIXY」の文字が掲げられています。日本の多くの人々に愛され惜しまれながら、ピクシーは去っていきました。

ピクシーにとって、母国の国際制裁や自身のケガによって、必ずしも満足のいく選手生活ではなかったことでしょう。しかし、「それもまた人生さ」と、悔いは見せません。
ノンフィクション作家、木村元彦氏による『誇り−ドラガン・ストイコビッチの軌跡−』という書籍があります。

私は、以前この本を読んでいて、何度も何度も涙があふれてきました。日本人には民族問題のことが本当に理解できるとは思わないのですが、それでも、国って何だろう、民族って何だろう、人間って何だろう、仲間って何だろう、と。スポーツは、政治や民族や戦争とは関係ない所で進んで欲しいとつくづく思います。ピクシーは、そんなことも学ばせてくれたのでした。

10月6日には、愛知県豊田市に新たに完成した4万人収容のサッカー専用スタジアム「豊田スタジアム」で、ユーゴスラビアのトップチームでピクシーがかつて所属したレッドスター・ベオグラードを迎え、ピクシーの引退試合が行われます。時間の都合がつけば、豊田まで足を運びたいと思っています。
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